伊丹市の遺跡2-1有岡城跡・伊丹郷町遺跡
有岡城跡・伊丹郷町遺跡****伊丹市伊丹
巻首図版1-遺跡全景(東から)㊤・調査地点上空(東から)㊦
挿図1-調査区位置図(上)・城跡配置図(下)
挿図2-有岡城跡、伊丹郷町の位置
参考写真図版4-伊丹郷町、光明寺墓地跡出土の茶道具(№1-114次調査地点出土品)黒漆塗棗(なつめ)㊤・茶碗(左)と茶巾筒(右)㊦(ひょうごの遺跡41号による)
埋葬時期は江戸時代後期(19世紀初頭)。時期の明らかな茶道具がセットで見つかるのは非常に珍しいとされている。
第3図-第2面調査区全体図
巻首図版2遺跡出土遺物-J地区出土、瀬戸黒茶碗・A地区出土中国産施釉陶器壺(上)、H地区出土円筒埴輪・・5世紀末~6世紀前半(下)
J44-17世紀前半。A160-17世紀前半。A89-19世紀前半
写真図版7-A地区第2面調査区全景(東から)最下部堀SF-1
幅6.0m、深さ2.7m。17世紀後半には埋没したとされるが、主郭域の堀(幅10m以上)に次ぐもので、J地区の堀と同規模で注目される。SF1より西(上部)⇒SF3⇒SF4⇒SF2。
第5図-A地区堀断面図・SK31平・断面図
写真図版8-A地区第2面堀SF1(右)SF4(左)
参考写真図版1-堀跡SF1と埋土の状況(ひょうごの遺跡23号)による
第108図-J地区調査区平面図
第110・110図-J地区石組溝・堀変遷図
写真図版135・137-J地区6区第1面調査区全景(東から)㊤・J地区6区第2面遺構近景酒蔵礎石(西から)㊦
写真図版136・138・139-J地区6区第2面調査区全景㊤同上堀断面図(北から)㊥J地区7区調査区全景(東から)㊦
参考写真図版2-酒蔵跡の調査(カマド跡)、平成22年度、伊丹市教育委員会第315次調査(池上家酒蔵跡)兵庫の遺跡32号による。
参考写真図版3-市街地に埋もれた堀・石組溝1(大溝筋)東から「J地区6区西端」㊤・有岡城期前後の溝(手前SD1・2)東から㊦-ひょうごの遺跡36号による
有岡城跡・伊丹郷町遺跡****主要地方道伊丹停車道線(55号線)道路舗装修繕工事(郵便局前交差点~JR伊丹駅前交差点)に伴い、平成3年の確認調査を経て,翌平成4年から平成11年の8年間にわたり遺跡の本発掘調査が行われた。遺跡の発掘調査はそれ以降も地元伊丹市教育委員会によって継続して行われている。詳細は伊丹市教育委員会現地説明会資料(平成15年~平成25年)を参照。
有岡城(旧伊丹城)は戦国武将・荒木村重の居城でその構造は、当時としては「惣構え」をもった本格的な城郭であったとされる。平成26年にNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で世に広く紹介されることとなった。その規模は南北1.7m、東西0.8mに及んでいたとされ、城郭区域・武家屋敷区・町屋区に区分されていたとされる。調査の対象となったのは、この内郭部と外郭部の接点で、「大溝筋」と呼ばれる地域の南端を東西に結ぶ堀跡の確認。昭和54年に国の指定史跡となる。
調査は東端のA地区から西端のJ地区まで10区画に区分けして行われた。A地区第1面からは10基の土坑が確認される。出土遺物は土師器・瓦質土器・磁器・陶器・土製品。遺物の年代は18世紀後半から19世紀初頭とされる。A地区第2面からは堀SF1~4・溝SD1~6が確認される。出土遺物は土師器・瓦質土器・磁器・陶器・瓦・金属器・石製品・中世以前の遺物。遺物の年代は15世紀~17世紀後半とされる。
文禄(1593年~1593年)伊丹之図及び寛文9年(1669年)の伊丹郷町絵図、さらには、昭和56年に城郭の北域で堀跡が確認されたことにより、研究者の間では、有岡城は東西南北に堀をめぐらした惣構え構造の城跡とされていた。それが現実のものとなったわけで、調査の大きな成果となっている。
調査地中央部のH地区西側の地点からは円筒埴輪棺が出土している.棺は径約38㎝、残存長約80㎝。年代は5世紀末~6世紀前半とされるが、A地区においても円筒埴輪片が出土している点から、当時期にこの地周辺が墓域であった可能性が指摘されている。
調査区最西端のJ地区第1面からは町屋関係の遺構である土坑・礎石・便所・石組溝・建物礎石・井戸・防空壕・胞衣壺等が確認されている。遺物としては、土師器・瓦質土器・磁器・陶器等18世紀後半を中心とする土器が出土している。J地区東1~5区は町屋の遺構。J地区西6・7区からは石組遺構とともに酒蔵の礎石が出土している。これは北側に隣接していた万歳蔵の一部と考えられている。
J地区第2面からは堀1・2、溝SD1~7、土坑、井戸が確認されている。出土遺物は土師器、瓦質土器、陶器、磁器、瓦器、金属製品、石製品。その時期は16世紀後半~17世紀で、一部古墳時代及び中世の土器も含まれている。この地区で注目されたのは堀1の出現である。その規模も、幅6m、深さ2.7mと、A地区で確認された堀SF1と同規模であった。
この堀1は、大溝筋の語源となった石組溝と堀が重なった状態で確認されている。これは検証の結果、堀が埋められた後石組溝2⇒1の順に変遷したことが判明している(第110・111図を参照)。堀1が完全に埋められたのは、17世紀後半で、石組溝が造りかえられた為とされる。一方、東部では堀2が確認されている。これは区画溝SD1・2・4・5・7と方向が一致すること、及び出土遺物から、16世紀・伊丹城期の堀跡とされる。
参考資料
1-兵庫県文化財調査報告書第301冊-有岡城跡・伊丹郷町Ⅳ-2006年3月(平成18年)-兵庫県教育委員会
2-兵庫県文化財情報「ひょうごの遺跡」23号-平成8年11月11日-兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
3-兵庫県文化財情報「ひょうごの遺跡」32号-平成11年3月31日-兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
4-兵庫県文化財情報「ひょうごの遺跡」36号-平成12年5月31日-兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
5-兵庫県文化財情報「ひょうごの遺跡」41号-平成13年10月31日-兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
6-有岡城跡・伊丹郷町遺跡、発掘調査現地説明会資料-平成15年(第271次調査)~平成25年(第352次調査)-伊丹市教育委員会ホームページより
巻首図版1-遺跡全景(東から)㊤・調査地点上空(東から)㊦
挿図1-調査区位置図(上)・城跡配置図(下)
挿図2-有岡城跡、伊丹郷町の位置
参考写真図版4-伊丹郷町、光明寺墓地跡出土の茶道具(№1-114次調査地点出土品)黒漆塗棗(なつめ)㊤・茶碗(左)と茶巾筒(右)㊦(ひょうごの遺跡41号による)
埋葬時期は江戸時代後期(19世紀初頭)。時期の明らかな茶道具がセットで見つかるのは非常に珍しいとされている。
第3図-第2面調査区全体図
巻首図版2遺跡出土遺物-J地区出土、瀬戸黒茶碗・A地区出土中国産施釉陶器壺(上)、H地区出土円筒埴輪・・5世紀末~6世紀前半(下)
J44-17世紀前半。A160-17世紀前半。A89-19世紀前半
写真図版7-A地区第2面調査区全景(東から)最下部堀SF-1
幅6.0m、深さ2.7m。17世紀後半には埋没したとされるが、主郭域の堀(幅10m以上)に次ぐもので、J地区の堀と同規模で注目される。SF1より西(上部)⇒SF3⇒SF4⇒SF2。
第5図-A地区堀断面図・SK31平・断面図
写真図版8-A地区第2面堀SF1(右)SF4(左)
参考写真図版1-堀跡SF1と埋土の状況(ひょうごの遺跡23号)による
第108図-J地区調査区平面図
第110・110図-J地区石組溝・堀変遷図
写真図版135・137-J地区6区第1面調査区全景(東から)㊤・J地区6区第2面遺構近景酒蔵礎石(西から)㊦
写真図版136・138・139-J地区6区第2面調査区全景㊤同上堀断面図(北から)㊥J地区7区調査区全景(東から)㊦
参考写真図版2-酒蔵跡の調査(カマド跡)、平成22年度、伊丹市教育委員会第315次調査(池上家酒蔵跡)兵庫の遺跡32号による。
参考写真図版3-市街地に埋もれた堀・石組溝1(大溝筋)東から「J地区6区西端」㊤・有岡城期前後の溝(手前SD1・2)東から㊦-ひょうごの遺跡36号による
有岡城跡・伊丹郷町遺跡****主要地方道伊丹停車道線(55号線)道路舗装修繕工事(郵便局前交差点~JR伊丹駅前交差点)に伴い、平成3年の確認調査を経て,翌平成4年から平成11年の8年間にわたり遺跡の本発掘調査が行われた。遺跡の発掘調査はそれ以降も地元伊丹市教育委員会によって継続して行われている。詳細は伊丹市教育委員会現地説明会資料(平成15年~平成25年)を参照。
有岡城(旧伊丹城)は戦国武将・荒木村重の居城でその構造は、当時としては「惣構え」をもった本格的な城郭であったとされる。平成26年にNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で世に広く紹介されることとなった。その規模は南北1.7m、東西0.8mに及んでいたとされ、城郭区域・武家屋敷区・町屋区に区分されていたとされる。調査の対象となったのは、この内郭部と外郭部の接点で、「大溝筋」と呼ばれる地域の南端を東西に結ぶ堀跡の確認。昭和54年に国の指定史跡となる。
調査は東端のA地区から西端のJ地区まで10区画に区分けして行われた。A地区第1面からは10基の土坑が確認される。出土遺物は土師器・瓦質土器・磁器・陶器・土製品。遺物の年代は18世紀後半から19世紀初頭とされる。A地区第2面からは堀SF1~4・溝SD1~6が確認される。出土遺物は土師器・瓦質土器・磁器・陶器・瓦・金属器・石製品・中世以前の遺物。遺物の年代は15世紀~17世紀後半とされる。
文禄(1593年~1593年)伊丹之図及び寛文9年(1669年)の伊丹郷町絵図、さらには、昭和56年に城郭の北域で堀跡が確認されたことにより、研究者の間では、有岡城は東西南北に堀をめぐらした惣構え構造の城跡とされていた。それが現実のものとなったわけで、調査の大きな成果となっている。
調査地中央部のH地区西側の地点からは円筒埴輪棺が出土している.棺は径約38㎝、残存長約80㎝。年代は5世紀末~6世紀前半とされるが、A地区においても円筒埴輪片が出土している点から、当時期にこの地周辺が墓域であった可能性が指摘されている。
調査区最西端のJ地区第1面からは町屋関係の遺構である土坑・礎石・便所・石組溝・建物礎石・井戸・防空壕・胞衣壺等が確認されている。遺物としては、土師器・瓦質土器・磁器・陶器等18世紀後半を中心とする土器が出土している。J地区東1~5区は町屋の遺構。J地区西6・7区からは石組遺構とともに酒蔵の礎石が出土している。これは北側に隣接していた万歳蔵の一部と考えられている。
J地区第2面からは堀1・2、溝SD1~7、土坑、井戸が確認されている。出土遺物は土師器、瓦質土器、陶器、磁器、瓦器、金属製品、石製品。その時期は16世紀後半~17世紀で、一部古墳時代及び中世の土器も含まれている。この地区で注目されたのは堀1の出現である。その規模も、幅6m、深さ2.7mと、A地区で確認された堀SF1と同規模であった。
この堀1は、大溝筋の語源となった石組溝と堀が重なった状態で確認されている。これは検証の結果、堀が埋められた後石組溝2⇒1の順に変遷したことが判明している(第110・111図を参照)。堀1が完全に埋められたのは、17世紀後半で、石組溝が造りかえられた為とされる。一方、東部では堀2が確認されている。これは区画溝SD1・2・4・5・7と方向が一致すること、及び出土遺物から、16世紀・伊丹城期の堀跡とされる。
参考資料
1-兵庫県文化財調査報告書第301冊-有岡城跡・伊丹郷町Ⅳ-2006年3月(平成18年)-兵庫県教育委員会
2-兵庫県文化財情報「ひょうごの遺跡」23号-平成8年11月11日-兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
3-兵庫県文化財情報「ひょうごの遺跡」32号-平成11年3月31日-兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
4-兵庫県文化財情報「ひょうごの遺跡」36号-平成12年5月31日-兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
5-兵庫県文化財情報「ひょうごの遺跡」41号-平成13年10月31日-兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所
6-有岡城跡・伊丹郷町遺跡、発掘調査現地説明会資料-平成15年(第271次調査)~平成25年(第352次調査)-伊丹市教育委員会ホームページより

























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