三田市の遺跡4-有鼻遺跡
有鼻遺跡****三田市けやき台6丁目
遺跡の遠景(南から)
有鼻遺跡の位置
図版1-調査区位置図
表1-地区別主要遺構一覧表
遺跡の全景(西から)
図版3-検出主要遺構分布図
尾根上の竪穴住居群
第39図-住居跡の変遷Ⅱ-A期の住居
第40図-住居跡の変遷Ⅱ-B期の住居
第41図-住居跡の変遷Ⅱ-C期の住居
図版70-掘立柱建物6・7
№6・7は神殿と推定。№7(ⅡB期)⇒№6(ⅡC期・棟持柱構造)。№1~5は高床式倉庫と推定。
図版54-掘立柱建物6・7の復元(北東から)
図版11-竪穴住居12と建替後焼失した「10形中央土坑」を持つ竪穴住居11(弥生時代中期後半)
図版29-竪穴住居37(上)・42(下)
№37中央部東床面に焼土の痕跡があり、共同厨房の可能性が指摘されている。№42焼失痕跡のある播磨地方特有の10字形住居。
図版35-竪穴住居49
住居跡から多量のサヌカイト剥片が出土したことから、石器工房跡と推定されている。
写真図版43-段上遺構(上)竪穴住居49(下)
第31図-兵庫県内「10形中央土坑」検出遺跡
参考第25図-10型土坑を有する竪穴式住居の分布(上)、一覧表(下)№2有鼻遺跡
第38図-兵庫県南東部地域の遺跡(アミは標高200m以上)
第1図-有鼻遺跡(№26)周辺の遺跡分布図(上)、遺跡地名表(下)
斜面の遺構群
図版62-段状遺構と遺物出土状況
段上遺構は、柱穴が確認されていることから、物見台的遺構とも考えられるが、その用途は不明。
段状遺構63出土、鉄剣(№M8)
図版142-Ⅰ・Ⅱ区出土鉄器(M8・14段状遺構63出土)
包含層・竪穴住居・段状遺構出土鉄斧・鉄鏃
包含層出土磨製石斧(上)、サヌカイト石材(下)
表7-石器の器種別出土点数
図版109・110-有鼻遺跡出土、打製石鏃(1~4)
第10図-有鼻遺跡出土、弥生式土器分類図1(壺)
第11図-同上2(甕・鉢・高杯・器台)
参考写真図版-内場山弥生墳丘墓(上)と住居跡(下)昭和60年12月21日
参考図版28-同上、墳丘墓全体図(上)墳丘墓SX10出土遺物(下)
供献土器と副葬品(中央部、素環頭太刀。上、鉄斧・鉋。下鉄鏃)
有鼻遺跡****北摂ニュータウン(ウッディタウン)都市開発事業に伴い、平成7年度に遺跡の全面調査が行われた。調査区はⅠ・Ⅱ・Ⅲ区に分けて行われ、縄文時代から近世に至るまでの数多くの遺構遺物が確認されている(詳細は表1を参照)。
この遺跡で特徴的なのは、Ⅰ・Ⅱ区の尾根上を中心として数多く検出された、竪穴式住居群の存在である。その総数は70基で、出土土器によりその年代は弥生時代中期後半とされている。尾根斜面からは、86基もの段状遺構が確認され、№63の遺構からは全長23.0cmの鉄剣が出土している。検証の結果、この鉄剣は国産でしかも、畿内最古(平成11年現在)とされる。その他、掘立柱建物跡9棟以上・溝、土坑、ピットが多数確認されている。
飛鳥時代の遺構としては、3基の段状遺構を確認。平安時代中期の遺構としては、2棟以上の掘立柱建物跡・13基の墓跡・2条の溝・多数のピットを確認。中世の遺構としては、153基以上の墓跡が確認されている。
弥生時代の遺構からの出土遺物としては、多量の土器・石器の出土が報告されている。土器の破片総数は8~9万点とされ、石器においては、石鏃・尖頭器・石斧・石剣石包丁をはじめとして、多種多様の遺物が出土している。その出土総数は907点とされ、畿内地方の中でも有数の量とされている。
この遺跡で注目されるのは、弥生中期の高地性集落を構成する多数の竪穴式住居群の存在である。特にその中でも、「10字型中央土坑」を有する竪穴住居の存在は出土遺物と共に、弥生社会の変遷を知る上において貴重な資料を提示している。
この集落は弥生中期後半を境として、突如その生活痕跡を絶っている。その契機は何であったのだろうか.。この特殊な構造を持つ住居跡は播磨地域特有のもので、弥生中期を境として衰退するとされている。その間の推移を示す遺跡の分布図による限り、大和王権の播磨進出そして武庫川を介する新規陸路の出現を暗示しているように思えてならない。篠山市の内場山弥生墳丘墓そして、雲部車塚古墳の出現は、この間の事情を裏付けているように思う。その点においても、この遺跡の存在意義は大きいと思われる。
参考資料
兵庫県文化財調査報告書第185冊-有鼻遺跡-平成11年3月-兵庫県教育委員会
兵庫県文化財調査報告書-清水遺跡-1999.3-兵庫県教育委員会
兵庫県文化財調査報告書第126冊-内場山城跡-1993.3-兵庫県教育委員会
遺跡の遠景(南から)
有鼻遺跡の位置
図版1-調査区位置図
表1-地区別主要遺構一覧表
遺跡の全景(西から)
図版3-検出主要遺構分布図
尾根上の竪穴住居群
第39図-住居跡の変遷Ⅱ-A期の住居
第40図-住居跡の変遷Ⅱ-B期の住居
第41図-住居跡の変遷Ⅱ-C期の住居
図版70-掘立柱建物6・7
№6・7は神殿と推定。№7(ⅡB期)⇒№6(ⅡC期・棟持柱構造)。№1~5は高床式倉庫と推定。
図版54-掘立柱建物6・7の復元(北東から)
図版11-竪穴住居12と建替後焼失した「10形中央土坑」を持つ竪穴住居11(弥生時代中期後半)
図版29-竪穴住居37(上)・42(下)
№37中央部東床面に焼土の痕跡があり、共同厨房の可能性が指摘されている。№42焼失痕跡のある播磨地方特有の10字形住居。
図版35-竪穴住居49
住居跡から多量のサヌカイト剥片が出土したことから、石器工房跡と推定されている。
写真図版43-段上遺構(上)竪穴住居49(下)
第31図-兵庫県内「10形中央土坑」検出遺跡
参考第25図-10型土坑を有する竪穴式住居の分布(上)、一覧表(下)№2有鼻遺跡
第38図-兵庫県南東部地域の遺跡(アミは標高200m以上)
第1図-有鼻遺跡(№26)周辺の遺跡分布図(上)、遺跡地名表(下)
斜面の遺構群
図版62-段状遺構と遺物出土状況
段上遺構は、柱穴が確認されていることから、物見台的遺構とも考えられるが、その用途は不明。
段状遺構63出土、鉄剣(№M8)
図版142-Ⅰ・Ⅱ区出土鉄器(M8・14段状遺構63出土)
包含層・竪穴住居・段状遺構出土鉄斧・鉄鏃
包含層出土磨製石斧(上)、サヌカイト石材(下)
表7-石器の器種別出土点数
図版109・110-有鼻遺跡出土、打製石鏃(1~4)
第10図-有鼻遺跡出土、弥生式土器分類図1(壺)
第11図-同上2(甕・鉢・高杯・器台)
参考写真図版-内場山弥生墳丘墓(上)と住居跡(下)昭和60年12月21日
参考図版28-同上、墳丘墓全体図(上)墳丘墓SX10出土遺物(下)
供献土器と副葬品(中央部、素環頭太刀。上、鉄斧・鉋。下鉄鏃)
有鼻遺跡****北摂ニュータウン(ウッディタウン)都市開発事業に伴い、平成7年度に遺跡の全面調査が行われた。調査区はⅠ・Ⅱ・Ⅲ区に分けて行われ、縄文時代から近世に至るまでの数多くの遺構遺物が確認されている(詳細は表1を参照)。
この遺跡で特徴的なのは、Ⅰ・Ⅱ区の尾根上を中心として数多く検出された、竪穴式住居群の存在である。その総数は70基で、出土土器によりその年代は弥生時代中期後半とされている。尾根斜面からは、86基もの段状遺構が確認され、№63の遺構からは全長23.0cmの鉄剣が出土している。検証の結果、この鉄剣は国産でしかも、畿内最古(平成11年現在)とされる。その他、掘立柱建物跡9棟以上・溝、土坑、ピットが多数確認されている。
飛鳥時代の遺構としては、3基の段状遺構を確認。平安時代中期の遺構としては、2棟以上の掘立柱建物跡・13基の墓跡・2条の溝・多数のピットを確認。中世の遺構としては、153基以上の墓跡が確認されている。
弥生時代の遺構からの出土遺物としては、多量の土器・石器の出土が報告されている。土器の破片総数は8~9万点とされ、石器においては、石鏃・尖頭器・石斧・石剣石包丁をはじめとして、多種多様の遺物が出土している。その出土総数は907点とされ、畿内地方の中でも有数の量とされている。
この遺跡で注目されるのは、弥生中期の高地性集落を構成する多数の竪穴式住居群の存在である。特にその中でも、「10字型中央土坑」を有する竪穴住居の存在は出土遺物と共に、弥生社会の変遷を知る上において貴重な資料を提示している。
この集落は弥生中期後半を境として、突如その生活痕跡を絶っている。その契機は何であったのだろうか.。この特殊な構造を持つ住居跡は播磨地域特有のもので、弥生中期を境として衰退するとされている。その間の推移を示す遺跡の分布図による限り、大和王権の播磨進出そして武庫川を介する新規陸路の出現を暗示しているように思えてならない。篠山市の内場山弥生墳丘墓そして、雲部車塚古墳の出現は、この間の事情を裏付けているように思う。その点においても、この遺跡の存在意義は大きいと思われる。
参考資料
兵庫県文化財調査報告書第185冊-有鼻遺跡-平成11年3月-兵庫県教育委員会
兵庫県文化財調査報告書-清水遺跡-1999.3-兵庫県教育委員会
兵庫県文化財調査報告書第126冊-内場山城跡-1993.3-兵庫県教育委員会
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